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函館山海岸歩き報告と雑感
2014/8/2
金子です。

7月30日に函館山海岸歩きに行きました。
当初の予定では、7月21日に一度練習するはずだったのですが
荒天で実施出来なかったので、北水ワンゲルでの今季初めての海岸歩きになりました。

部内資料を基にルートを考えると、下図のようになりました。
スタートは立待岬でゴールがペンギンズバレーです。
予告 海岸歩き

核心部は立待岬-大鼻岬での泳ぎです。
過去には新歓でも行かれていますが、まったくの初見の海岸なので、慎重に行きました。


当日は天気がめっちゃ良かった。波は1m。絶好の機会。
松野さんに車回しを手伝ってもらって出発。本当に助かった。

syupatsu.jpg
出発写真!!


途中、泳いだり、登ったり、降りたりと複雑な動きをしながら進む。

DSCF1051.jpg
泳ぎます。

DSCF1067.jpg
飛びます。フライングkozkoz(4)

DSCF1057.jpg
登ります。筆者(3)

kyogann.jpg
ときにはめちゃめちゃでかい岩のアーチもある。すげえ。

IMG_1039.jpg
海岸線。函館山は霧が架かったり、晴れたりと美しい。



IMG_1061.jpg


IMG_1063.jpg
人が掘ったっていう洞窟と覆洞の守り神tokioka(3)。
よくここに道を作ってまで、住もうと思ったこと。


番外編。
 函館山にある海蝕洞=穴澗洞をご存知でしょうか?
 地図にも記載されてありますが、ペンギンズバレーの先に穴澗という洞窟があります。
 

今回の活動で、穴澗を探検してきたので、ここで少し考察します。

●目的:目測と踏査による測量図と、古記録の一致の検証
●方法:活動の記録とそれに基づく測量図作成、これらと古記録の比較
●文献:北海道の口碑伝説 p176-178 穴澗
     函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著) p154-156,172-173,209-210
     釧路湿原・阿寒湖・摩周湖 北海道東部の観光情報ポータルサイトhttp://kam-kankouken.jp/tourism/kushiro/special/17.html
     遊ぶべ 道南探検隊"http://donan.org/about

まず、参考文献として挙げられている、"北海道の口碑伝説 p176-178 穴澗"を全文を区切って紹介する。
"北海道の口碑伝説"は昭和15年(1940年)に北海道庁が編纂した書籍である。

--<本文>--------------------

 山脊泊町から寒川部落に通ずる、一條の海道の中ほどに、宛も江之島の大洞窟を思はしめる如きもの、それを市民は穴澗と呼ぶ。海水常に怒涛となり岩壁に砕けているのと、岩汁が急霰の如く降り注いでいるのとで、余程波の静かなひ、合羽様のもので充分身支度を整へ、特殊の小舟にのり、洞内の照明準備していなければ、洞奥の神秘は探れぬ。殊に洞口は湛へた紺碧の深淵を見ただけでも、如何なる魔神が棲むかと思われる程なので、余程剛毅な探検家でない限りは、洞奥には進めない。さればこそ古老に聞いても、諸説區々徒らに怪は怪を海、或は谷地眼に貫いているとか、船魂神社の裏の深穴に抜けられるとかの傳説が作り出された。

--<考察>--------------------

 山脊泊町から寒川部落に通ずる、一條の海道
 山脊泊町は当時あった集落の名前。現在では入船町に加えられている。
 函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)p154-155より引用

 谷地眼
 ヤチマナコとは、要するに水が溜まった落ち窪みのことで、例えば夕日に赤く照らされた水面などは夕闇の中で赤い眼がギロリと見開いているように見えないこともない? ところで、ただの水溜まりと侮ってはいけない。底なし沼というほどではないが、マンホールほどの大きさの穴の深さが3〜4メートルにも達するという。
 釧路湿原・阿寒湖・摩周湖 北海道東部の観光情報ポータルサイトhttp://kam-kankouken.jp/tourism/kushiro/special/17.htmlより引用。
 明治6年に尻沢辺村の一部から、公称し谷地頭町となる。明治11年に埋め立てられるまでは、八幡宮周辺は低湿地であった。そこは、埋めても埋めても埋め立てられない湿地だったため、谷地眼と呼ばれ、穴澗と繋がっていると伝説にされた。
 函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)p209-210より引用

 船魂神社は現在も函館市元町7-2に存在する神社である。一説には北海道最古の神社であり、義経伝説もある。
 函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)p172-173より引用

スライド1

--<本文>--------------------


 今實際に洞奥を探つた快男児某の談を聞くに、
  洞窟は入り口が西に向かっているが、奥行を測るために洞口の釣り橋の鉄線に、縄を縛りつけ奥へ進むと十尋程で右に曲り、それからが真暗闇で、中から入り口を顧みると、僅かの光で波の躍動するのが見へるばかり。随て洞内の物を識別する為には、僅かの光では駄目なので、ボロ切を丸めて石油を濺いだ物を用ひた。点火すると同時に奥の方から、バタバタ飛んできたものがあるので思はずゾウツとしたが、それは言うまでもなく蝙蝠群である。岩面から降り注ぐ水滴が、首筋に触れてヒヤリとするのと、このバタバタの音を聞いては、自ら膚に粟立ちを感ずる。手にした焔火から立ち昇る濛々たる油煙を振りかざしながら、小舟を漕ぎ進めると、間もなく四米位の巨石が横はつている。それを越えると砂礫の 礒で、目前には磊塊たる岩が崩れかかり、それを五米程登ると、大きな岩の頂上に達する裂目はあるが、僅かばかりの細長い平らな処がある。そして其処には方六十糎許りの石造の御堂が鎮座して、中には穴澗大明神と記した札が一枚有った。其処の天井は一番高く、恰も甲の様な風に冠さつて居る。それから奥は磊塊たる岩塊で奥に六十糎許りの砂地が有った。其処迄が入り口から約四十尋あまりの深さである。又途中から左手(山手)の岩陰に、巾七十五糎位の裂隙が有って一つの支洞を成して居る。之は全く普通では進み得ないが、入り口に居つて心耳を澄ますと、遙に汀に打寄する漣の音を聞くことが出来る。

--<考察>--------------------

 快男児某の話の部分である。この部分に関しては、筆者も海岸歩きの際に記録をしたので、照らし合わせる。
以下筆者の記録
 洞口は橋の跡の人工物の先にあり、幅10m高さは10m程度ある。洞口から20mほどは幅の太い通路となっていて、僅かに奥への流れを感じた、また水面に流れがあるのを確認した。そして若干右曲がりである。先向かって左手に大きな岩がある。岩を左手に見ながら直進すると、陸地にぶつかる。陸地は岩礁と砂地で出来ていて、陸地の中央には天井が崩落した岩が5m程度重なる。陸地の外縁部は砂地のようになっているほか、端は人が入れないような隙間となっている。陸地全体はホール状地形であり、最大高度15mはあるように見えた。陸地の岩壁や天井は水が染み出していて、陸地の上部の地上からしみこんだ水が、陸地の天井に隙間を作り崩落した結果、ホールが出来たと思われる。
 また、大きな岩の反対側には、幅は細く5m弱、高さは7mぐらいの通路があり先までは見えなかったが、奥に続く流れがあった。

目測であるが測量図を掲載する。
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 伝記では入口から六十糎許りの石造の御堂までは約74mとしており、筆者の記録では大体70mくらいで御堂があったとされる場所になり合致するが、崩落ばかりで見つけられなかった。

 巾七十五糎位の裂隙が有って一つの支洞を成して居る。とあるが、筆者は5m程度あるように見えた。

 大まかな洞窟の形状は同じといえる!!

洞窟の写真を紹介する。

DSCF1093.jpg

doukutu.jpg

洞口。上は外から見た図、モデルは小塚=黒沢さん、下は中から見た図。

dounai.jpg

dounai2.jpg

内部の風景。

--<本文>--------------------

 昔此の洞窟内の岩上で、鐡門土人なる僧が、座禅觀法の修行をしたと伝えられているが、其の時代も伝記に詳することができない。
 因に前記谷地眼と称するものは、今谷地頭町の低地が昔の噴火口で、維新前までは、小沼であったため、埋め立ては殆んど底知らずという難工事であった。それで沼の底は海に通じているなどと噂された。勿論現在はすっかり埋め立てて、立派な街衢をなしている。
 又船魂神社の裏に高さ十六米余、樹幹地上一米にて五米牟の周りがある程の巨杉があつた。樹齢も一千年以上と伝えられていてあつたが、その傍らに人工の横穴があった。明治の末期ごろ迄には少年たちがしばしば蝋燭を灯して探つたものである。山手に向つて穴に入ること十米位で、下方に掘り下げられた竪穴を梯子で降りると、それから山手に向つて更に十米以上も延びている。此方は高さも高いが、別に中途から右手に向かって支穴がある。之は最初の入口の下方に延び光線は見えているが、穴が低いので這入られない。で一體(一体)之は何であるかと常時種々取沙汰たれた。或者は函館戦争の際脱走軍が隠れた所だ、或者は酒造業者が函館山から良質の地下水を得ようと、密かに富地の官有地をほったのであるが、不幸にも水が出なかったのだと言っている。穴の構造から考えるとそれもどうかと思う。
 時事新報社から発行の雑誌少年に、これらの穴澗や、谷地眼、深穴などを取材として、松美佐雄が要塞の兵隊さんが探検したという、童話を発表したことがある。

--<考察>--------------------

 谷地頭=谷地眼に関しては前述した。
 船魂神社の深穴が穴澗と繋がるという話は大変詳しく書かれているので、函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)p155-156では伝説として書かれているが、実在する可能性があると思う。
 時事新報社から発行の雑誌少年に、これらの穴澗や、谷地眼、深穴などを取材として、松美佐雄が要塞の兵隊さんが探検したという、童話は気になるもの。函館中央図書館に蔵書が沢山あるので、時間があるときに探してみたい。

 函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)p155-156で穴澗についての部分を抜粋する。
  大ダコの主がいる
  一つ目の怪物がいる
  アイヌが神様をまつった処だ
  近海荒しの海賊の根城だ
  主はタコではなく巨大なセイウチ、ワニザメ、白蛇
  空洞は谷地眼に通じている
  鉄門上人とういう僧が中の岩の上で座禅観法をした
  中は程なく右に曲がりバタバタとコウモリ群、真暗だから照明が必要だ。降り注ぐ水滴も気味悪く、さらに小舟を進めると四㍍くらいの巨石、その向こうの砂利や崩岩を越えて石の小祠あり「穴澗大明神」の札があった。崩岩の支洞の果てはどんづまり。
  どんづまりには落書きが多い
  ペリーも調査した
  中にバクチ場がありとか、榎本軍が財宝を隠したというのはデタラメ

 大体は、北海道の口碑伝説に同じだが、"どんづまり"は崩岩の脇にある岩壁と地面の隙間をいうのか、海上の支洞をいうのかははっきりしない。海上の支洞のことをいうなら、"崩岩の支洞の果てはどんづまり"ではなく、"巨石の支洞の果てはどんづまり"と言った方が自然ではないか??。北海道の口碑伝説では、"又途中から左手(山手)の岩陰に、巾七十五糎位の裂隙が有って一つの支洞を成して居る。"とあり、支洞の始点がはっきりしない。

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●結論
 北海道の口碑伝説の記録と概ね記録測量図は合致する。支洞に関して、若干の文献との違いがある。
 船魂神社の竪穴や谷地頭町に通じる穴の記述が出てきた。

 地質図を参照する。
スライド1
 穴澗,船魂神社,谷地頭町は異なる地質で構成されている。
 それなのに繋がることってあるのか??その点は分からない・・・
 船魂神社の裏の穴,谷地頭町の穴は独立している??そもそもあるのか??

 
●今後の課題
 穴澗のより奥深くを探検・記録・測量すること。
 時事新報社発行の雑誌少年から穴澗に関する記述を見つけること。
 船魂神社・谷地頭町での聞き込み等情報収集。

●感想と雑感
 函館山は戦時中は軍事要塞となっていて、長らく自由に入れなかったところ。そのため、裏側は秘境となっていて、情報は古いものばかり。今、再開拓すべき!?
 一応、立ち入りには、警察の許可が必要。今回の活動も警察に許可を取った。気をつけていきましょう。
 松浦武四郎やペリーも行ったという噂のあるエリアなので、伝説ばかり。面白い。

文責,金子 8/3

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山行報告 | 17:19:52 | トラックバック(0) | コメント(0)